« みんな | トップページ | 梅雨の晴れ間に天山へ - yanの気まぐれ山雑記 »

2018年6月15日 (金)

 (135) 「生涯の恩」 ( 日々の出来事 )

        (135) 「生涯の恩」
 昭和48年(1973年)に司馬遼太郎さんは、随筆「街道を行く」の「モンゴル紀行」の取材のためにモンゴルの旅に出かけた。この紀行文の冒頭に、彼は書いている。
 「少年の頃、夢想の霧の中でくるまっているほど楽しいことはない。私の場合、口もとに薄ひげが生えてくる頃になってもこの夢は変わらなかった。そのころの夢想の対象は、東洋史に現れてくる変な民族にとってだった。」 
  とある。
 彼の少年の日の夢は、古代中国北辺の匈奴や鮮卑などの騎馬民族、またそれを統一した蒼き狼・ジンギス・カンのモンゴル帝国への憧れだったのだろう。
                                                 (紀元前2世紀ごろの北方民族)
 彼らは新潟から空路ロシア(当時はソ連)のハバロフスクへ飛び、さらにバイカル湖畔にある、かって黄金と毛皮で繁栄し、シベリアのパリと称されたイルクーツクと二泊し、三日目にようやくモンゴルのウランバトールに着いた。当時はこれがモンゴルへの最短距離だったそうである。その際、モンゴル語に精通されている蒙古語主幹の?松(あべまつ)先生が同行した。その時の通訳が「ツェベックマさん」という女性で、彼女の波乱に飛んだ数奇な生涯が、のちに司馬さんの「草原の記」という作品になっている。
 モンゴル紀行の中で司馬さんは彼女との出会いを次のように記している。
 ・・・*(ウランバトールに着いてビルの二階に上がると40年配の肥った婦人が立っていた。
 草色のモンゴル服に細い銀色の帯を締め、手にはバックスキンの小さなハンドバッグを提げている。色白の小さな黒い瞳が利発な少女の様によく動く。貿易省の役人である「ツェベックマ」さんである。あべ松先生にとっては旧知の仲だった。
「私が案内します」ときれいな日本語で言い、日本式に素早く小腰をかがめた。)・・・
  
 ↑ツェベックマさんと司馬さん
  ・・・・
 司馬さんには外語時代の蒙古語について書いた「生涯の恩」という小文がある。
    「生涯の恩」    福田定一 (司馬遼太郎)
 ひとは、草の名を覚えないのは、覚えようとしないだけだ、と言うが、私はその草の名を覚えようとしないのではなく、覚えられないのである。
 道のべの草をその道の人に聞き、カタカナにして十個はあるその名を、五分後にはわすれていて、その道の人に大笑いされたことがある。
 語学の才能の第一は、まず右の才能である。
 ついで、音の調べ。私は歌が覚えられない。
 小学校で習ったうたも、いまは記憶にない。そういう人間は語学をやるべきではない。
 三つ目は物まねである。二十世紀初頭のイギリス人の小説に、自分は鶴の鳴き声でも、犬がおびえているときの声も、そっくりまねることが出来るから、大学は語学をえらんだ、とあった。私にはそんな離れ業は夢のようである。
 私の夢は、かたよっていた。
東洋史に出てくる中国周辺の諸民族の国名や民族名に、異常なロマンティシズムを感じたのである。匈奴、突厥、鮮卑、回吃、烏桓・・・みな二字漢字である。それらが、中国内陸に入って王朝を樹てたりすると、一字表記になる。蒙古が元になり、女真が清になったように。(一字表記が、漢民族文化にとって尊貴であったことはいうまでもない)
 このかたよりは今も続いていて、その故地にゆくと、浦島が竜宮城に行ったように、恍惚となる。兵隊の時は、見習士官になって赴任した部隊が満州の牡丹江石頭に駐屯していた。十世紀ぐらいの渤海の故地であり、その事を想うと、兵営のつらさもしのぐことが出来た。
 私は運動神経がにぶかった。
 だから、飛行機に志願するなど、思ってもいなかった。この運動神経も、ひょっとすると、語学習得のためのかすかな条件かもしれない。
 徴兵検査の後、兵種が通知されてきた。「野砲手」だった。ところが数日後、訂正されて「戦車手」にかわった。察するに、大阪外語蒙古語部の語学が、蒙古語のほかに中国語とロシア語が加わっていることと、「戦車科」と言う事と、無縁ではなかったのではないか。
 私は運動神経のなさが、不安だった。 同級の黒木武彦に聞いた。「飛行機の操縦とどちらが難しい?」
 「それは戦車だ。地面の高低と言う事があるから」と言う黒木の宣託は、私を悲しませた。
↑満州の戦車隊・小隊長の頃の司馬さん
  すべてが、終わった。
 一九七三年(昭和48年)というと、卒業して三十年ほど経つ。初めてモンゴルに行った。(*随筆・モンゴル紀行の取材)もったいなくも、恩師の?松(あべまつ)源一先生がついて行ってくださった。貧困な語学は、すべて?松先生によって補われた。果報というよりも、不埒と言うほかはなかった。
 ← モンゴルのあべ松先生と司馬さん
 その年に日蒙の間の国交が正常化されて初代の代理大使は昭和十三年に外語を卒業した崎山喜三郎氏で、私どもは、この崎山さんの世代が編纂した簡易辞書で勉強した記憶がある。そのうちの一人が今のアジア大学の鯉淵信一教授である。
 その後、私はモンゴルへゆくときは、鯉淵教授の日程に合わせて同行してもらうようになった。
 以上、語学習得の適性を欠いた無能者が、いかに母校の恩恵を受けたかという話である。
  生涯の恩だとおもっている。
                              (大阪外語21期会、記念文集より)
              ・・・・・
             「生涯の恩」の原稿用紙、すごい推敲のあとだ。。@@/
 
              ・・・・・          ・・・・・・
 
                                                 (モンゴルの星空・・須田剋太画)

« みんな | トップページ | 梅雨の晴れ間に天山へ - yanの気まぐれ山雑記 »